カービングの起源を探す旅 最終回
カービングの起源を探す旅はいよいよ最終回です。アユタヤ時代起源説があっさり否定されていた前回でしたが、今回は冒頭から「アユタヤ時代後期までに模様彫りから芸術形式にまで進化していたという確かな情報」をぶちかましてきます。それではどうぞ。
目次
III. 確かな記録を求めて:文学作品に見るカービングの萌芽
A. アユタヤ時代後期の芸術の萌芽
神話や曖昧な伝承とは異なり、洗練された野菜彫刻技術の存在を示す、検証可能な最初の証拠は、アユタヤ時代後期の生活を反映した文学作品に見出すことができます。
その代表例が、タイの古典文学の傑作『クン・チャーン・クン・ペーン』(Khun Chang Khun Phaen)です。この叙事詩の中には、儀式のためのお供え物(khrueang kan thet)を準備する場面があり、そこではパパイヤ(มะละกอ)を彫って物語的な人物像を作る様子が描かれています。具体的には、「尼僧が老人を乗りこなす姿」(แกะเป็นหลวงชีขี่ตาเถร)や、「ハゲワシが幽霊を食べる不気味な様子」(แกะแร้งกินผีดูพิกล)、さらには神々の姿など、ユーモラスで精巧な情景が彫られたと記されているのです 。
これは極めて重要なデータポイントです。なぜなら、アユタヤ時代後期までに、カービングが単なる模様彫りを超え、儀式的な文脈で用いられる物語的な芸術形式にまで進化していたことを示しているからです。これが、ラタナコーシン時代以前の起源を裏付ける最も確かな証拠と言えるでしょう。
B. 黄金時代:ラタナコーシン宮廷におけるカービングの隆盛
カービング芸術がその頂点に達したのは、ラタナコーシン王朝初期、特に詩人としても名高く、芸術の庇護者であったラーマ2世(在位1809-1824年)の治世であったと論じられています。この時代の王室が残した文学作品には、カービング技術を称賛する明確な記述が含まれています。
その決定的証拠が、王室の舟歌である『カープ・ヘー・チョム・クルアン・カーオ・ワーン』(Kap He Chom Khrueang Khao Wan、「甘辛料理を愛でるための舟歌」)です。この王室詩には、フルーツカービングに関する最も有名で具体的な描写が含まれています。
特に有名なのが、カスタードアップル(น้อยหน่า、ノイナー)を詠んだ一節です。「น้อยหน่านำเมล็ดออก ปล้อนเปลือกปอกเป็นอัศจรรย์ / มือใครไหนจักทัน เทียบเทียมที่ฝีมือนาง」(ノイナーはその種を取り去られ、皮を剥かれている様はまさに驚異/いかなる者の手が、この淑女の腕前に匹敵しえようか)。この詩は、繊細な果物の形を保ったまま種と皮を取り除くという、信じがたいほどの器用さを描写し、それを比類なき女性の偉業として明確に称賛しています。同詩では、マリアンプラム(maprang)や中国のプラム(phlap chin)の巧みな調理法についても言及されています 。
さらに、同じくラーマ2世の作とされる戯曲『サン・トーン』(Sang Thong)では、ヒロインのナン・チャンタラ・テーウィーが、瓢箪(ฟัก、ファック)の切り身に自身の人生の物語を7つの場面に彫り込み、息子に自らの正体を明かすという場面があります 。これは、カービングが物語を伝える媒体として認識されていたことを裏付けています。
C. 王室の洗練と女性の美徳の証としての芸術
これらの文学的証拠は、カービングがもはや単なる食事の準備ではなく、美的鑑賞の対象であり、物語を伝える手段へと昇華したことを示しています。ラーマ2世の詩における称賛は、特に「ฝีมือนาง」(フィー・ムー・ナーン、淑女の腕前)に向けられており、この芸術の最高形態が宮中のエリート女性の技能と明確に結びつけられていたことを示しています。
王室文学におけるこの称賛は、フルーツカービングを高度な芸術として、また「クンラサトリー」(kulastrıˉ)、すなわち洗練され、教養があり、徳の高い上流社会の女性の理想を構成する重要な要素として体系化しました。ラタナコーシン宮廷におけるフルーツカービングの隆盛は、単なる芸術的発展ではありませんでした。それは、シャムのエリート層の美学と社会的価値観を定義し、称賛するための、より広範な文化的プロジェクトの一部だったのです。この芸術は宮廷そのものの洗練と高度な文化の具体的な象徴となり、その価値体系こそが、後にナン・ノッパマートの神話を通じてスコータイ時代に投影されたのでした。
IV. 調査のまとめ:カービングの歴史を再構築する
A. 証拠に基づく改訂版年表の提案
これまでの分析を統合し、神話から史実へと移行する形で、タイのフルーツカービングの発展に関する一貫した歴史的軌跡を以下のように提案します。
- 第1段階:古代における食物装飾の起源 全ての文化と同様に、古代の東南アジア社会でも儀式や美的な目的で食物を装飾する基本的な習慣が存在したと考えられます。これが広範な、しかし記録に残らない基盤です 。
- 第2段階:アユタヤ時代後期(17-18世紀頃) – 洗練された工芸の出現 『クン・チャーン・クン・ペーン』などの文学作品に見られるように、野菜に複雑で物語的な彫刻を施す技術が確かに存在しました 。この実践は宮廷やエリート層の内部で行われていたと推測されます。
- 第3段階:ラタナコーシン時代初期(19世紀頃) – 宮廷芸術の頂点 ラーマ2世の宮廷で、この工芸は完成され、高度な芸術形式へと昇華されました。王室文学で称賛され、宮廷の洗練の証となり、エリート女性に必須の技能となったのです 。
- 第4段階:ラタナコーシン時代中期(19世紀頃) – 神話の創造 『タムラップ・ターオ・シーチュラーラック』が編纂され、当時称賛されていたラタナコーシン時代の芸術の起源を、イデオロギー的・教訓的な目的のためにスコータイ時代に遡って設定しました 。
- 第5段階:1932年以降 – 衰退と民主化 王政の役割を縮小した1932年の立憲革命は、カービングを含む多くの宮廷芸術の存続を脅かしました 。その後、この芸術は秘匿された宮廷の技術から、政府や民間機関の支援を受けてより広く教えられる国民的工芸へと移行していきました 。
B. 創設神話の力と持続性
歴史的に否定されているにもかかわらず、なぜナン・ノッパマートの物語がフルーツカービングの起源として最も人気のある説明であり続けるのでしょうか。その理由は、この物語が持つ文化的な有用性にあります。
ナン・ノッパマートの物語は、複雑な歴史分析よりもはるかにシンプルで、美しく、ロマンティックな物語です。それは、ロイクラトン祭や理想化されたスコータイの「黄金時代」といった、タイの他の愛される文化的シンボルとこの芸術を強力に結びつけます 。この結びつきは、情緒的に響き、記憶に残りやすい強力な文化的パッケージを生み出すのです。
このパッケージは、子供たちへの文化伝承、観光振興(特にスコータイのロイクラトン祭)、そして国民的誇りの醸成において非常に効果的です 。要するに、この神話は、より複雑な歴史的真実よりも、大衆的な文脈においてはるかに「有用」なのです。ナン・ノッパマート伝説の持続は、文化アイデンティティの形成における創設神話の力を証明しています。それは、現代の実践を正当化するための神聖で古代の起源を提供する「憲章神話」として機能しており、たとえその起源自体が後世の創作であっても、その文化的役割は揺るがないのです。
結論:伝説の向こうに見えた、もう一つの歴史
今回の調査の旅を通じて、タイのフルーツカービングの起源に関する通説、すなわちスコータイのナン・ノッパマートやアユタヤの宮廷の女性に端を発するという物語は、大部分が非歴史的であることが明らかになりました。これらの物語は、19世紀の文学的創作と歴史的用語の混同に由来するものです。
検証可能な証拠が指し示すのは、より漸進的な進化の歴史です。その芸術の萌芽はアユタヤ時代後期に現れ、ラタナコーシン王朝の宮廷で完成の域に達しました。この改訂された歴史は、「ケ・サラック」の芸術的価値を何ら損なうものではありません。むしろ、それはタイ文学の発展、国民的アイデンティティの政治、そして宮廷の優雅さの定義と深く絡み合った、より豊かで複雑な物語を明らかにしてくれます。フルーツカービングの真の歴史は、一つの工芸がいかにして芸術となり、そしてその芸術が歴史そのものを記述するためにいかに利用されたかという、魅力的な物語なのです。
アユタヤ説はどうやら根拠的には薄いようですがロマンがあって、それはそれで良いのでは無いかと思います。
ーAIの報告はここまでー

最後のまとめ (by Rubrum Yoshi)
今回のいちばんの目的である、カービングの起源については、アユタヤ時代に至るまでにタイでは確かにカービングの技術が存在していた。それがアユタヤ時代後期に芸術、美術に至るまでの技術として認められるための芽を出し、はっきりと完成の域に達したとされるのはラタナコーシン時代であるといわれましたね。強引に起源と区切るならラタナコーシン時代であるといえるということで、ビックリしたのです。
さらに考えると、ラタナコーシン時代というと、先の資料で18世紀から現代にかけてとなっています。起源という言葉で「区切ろう」とするからややこしいのかもしれないという、このシリーズを始めた目的を根底から捨て去ってしまうような感想を持ってしまいました。飾り切りの文化は先の王朝宮廷内でもあったようなので700年は長過ぎるとしても、200~300年の歴史と言ってしまうのはこれまた短かすぎて不正確な計算ではないでしょうか。
結論:①カービングの起源は、文字による記録が乏しいために特定は困難と思われる。しかし古代の社会では儀式などで食物を装飾のため彫ったりする基本的な習慣は存在したと考えられるので、これが記録には残らないがカービングの文化というか、広い意味での基盤となった可能性がある。
②起源という考え方を、カービングが美術・宮廷芸術のレベルにまで到達した時期とすると、18世紀頃のアユタヤ王朝の後期頃からその芽が出始めて(文学作品『クン・チャーン・クン・ペーン』が根拠)、それ以降の19世紀頃のラタナコーシン王朝時代にそのレベルに到達した。という感じでしょうか。
③これらを総合して「700年の歴史があると表記しても、根拠は薄いがカービングの始まりが古の習慣と考えれば間違いとは言い切れない。」日本で広く親しまれている700年の歴史や、スコータイ王朝、アユタヤ王朝が起源という言葉は、私がカービングに触れはじめた初期の頃からはっきりとカービングの歴史と宮廷文化・王朝文化に関係する趣味だという高貴な雰囲気を醸し出してくれて、それがカービングを習うモチベーションになっていたことに間違いはないです。これは、これからカービングに触れ始める方々に対しても同じだと思います。カービングという奥の深い技術の歴史に対して、勝手に歴史的な区切りという解釈をしようとしたことがおこがましかったと思いました。
私的にはAIさんの調査結果をこのように受け止めました。そしてそれとは別に、ここに出てきた全ての文献や作品類を、探し出して日本語に翻訳してもらい見てみたい聞いてみたいと思いました。これらをAIに投げかけて調べてみようという気持ちが出てきてしまったのは仕方ないですよね。面白い物が見つかれば、また転載してみようと思います。
とても長い文章を最後まで見ていただきありがとうございました。
